異邦人になってみた~~上海生活写真ブログ

中国上海市在住です。もう10年を超えました。休日は星空(天の川)撮影やポートレート撮影等、連休時はカメラを持って中国各地を旅行してます。最近は内モンゴル自治区によく行っています。

 このブログについて(about)
  中国旅行/観光/写真記事一覧(省別)

中国の戦国時代ドラマ芈月傳(ミーユエ伝) 81話あらすじ 最終回


このドラマ日本では「ミーユエ 王朝を照らす月」という名前で放送されるようですが、
「芈」って漢字日本語にはない漢字なのでどうするのかと思ってましたが、ピンインカタカナ読みとは。。。

遂に最終回、中国語では大結局と言います。
全部で81話ですが、2か月ぐらいで放送が終わってしまいましたね。。
中国のドラマ見るのって大変です。
芈月传(mǐ yuè zhuàn)は乐视网(http://letv.com),腾讯视频(http://v.qq.com/)で見ることができます。

芈月传 81話

全あらすじをみたい方はこちらから。
芈月傳 カテゴリーの記事一覧 - 異邦人になってみた~上海の人

ある日、赢稷(インシャー)は魏冉(ウェイラン)と芈戎(ミィロン)を呼びます。
「和氏璧」を知っているかという話をします。
二人は聞いたことはあるといいますが、
今は赵国の国君が大金をはたいて買ったと聞いていると話します。
赢稷は十五の土地を交換に赵国からこの「和氏璧」を買うといいます。
赵国に人を派遣して咸阳に呼びます。
これも太后の親孝行のためのようです。
この半年間、太后はずっと精神が憂鬱になっているようです。
体も今一つ良くないようで、この玉で喜ぶだろうと考えたようです。


赵国の使者蔺相は玉を持って秦国にやってきました。
太后は「和氏璧」を見て本物だと話します。
十五の土地を譲渡するという話を聞いて、機嫌が悪くなります。
十五座城池はどれだけの秦国の兵士の命と引き換えに得たものだといい、要らない、受け取れないといいます。


庸莴は大王に和氏璧は既に秦宫に来ているので土地を赵国にあげる必要などないと勧めます。
秦は強く赵は弱い赵国は秦と修復するために送ってきたと話せば良いといいます。
大王は庸莴の提案を受け入れます。


太后は赵国がこの稀世珍宝を普通の家臣に送らせたのが気になるようです。
ある日、柱儿がやってきて祖母を呼びます。和氏璧を見て見た目が良い石だと話します。
子供の目には貴重な和氏璧もただの石だと話します。
その時蔺相は和氏璧には瑕疵があるといって秦王に見せたいといいます。
赢稷は蔺相に玉を返しますが、蔺相は今度は返さないといいます。
理由は和氏璧を渡したが十五の土地をもらっていないというものです。


五日後、再びやってきた蔺相、箱の中に和氏璧はありません。
蔺相は秦王が十五の土地と交換するつもりがないことを察して、
和氏璧を赵国に持ち帰ったようです。
秦王は怒ります。蔺相を釜ゆでにしようとします。
蔺相は笑って久しぶりのお風呂だといい秦王に礼を言います。

これを見ていた太后が止めます。
秦王は蔺相を許すことにします。秦王は蔺相をもてなします。
张子(張儀)とおなじ気骨があるといいます。秦王は彼を懐柔したかったようですが、
蔺相は私はどうして张子に並びたてるものかと言い赵国に帰っていきます。


秦国は白起が楚国を攻め、首都を陥落させました。
楚国は仕方なく遷都したようです。


黄歇が楚国の国相となりました。屈原は楚国が負けたと聞いて汩罗江に沈んだと太后は聞きます。
恩师の不幸に芈月は悲しみます。


太后は相中に黄歇そっくりな一人の男性を見つけます。
名前は魏丑夫という青年です。太后は魏丑夫を寵愛します。
どうやら赢稷は母に気を利かせて魏丑夫を探してきたようです。


ある日太后は夢の中で先王赢驷に会います。赢驷はどこで貴方を待てばよいと話し、
太后は自分の墓は丽山の脚下だといいます翟骊の墓もそこだと。。。
丽山の丽をを変えて骊山にしたと話し、そこに自分は行くといいます。


楚国の黄歇から手紙が来ました。楚国桃子熟了と書かれていたようです。
太后は死んだあと楚国に行きたいと思い、死後の為にたくさんの土偶(侍女、歌舞)等を用意します。
しかし楚国に行くにはたくさんの兵士も必要だといい、兵马俑も追加することにします。


芈月が亡くなった18年後、13歳の秦王赢政が即位し、26年後、秦国は全国を統一します。
そして秦王赢政は「秦始皇」と名乗ります。

感想

こういう歴史のドラマってある程度歴史に合わせて登場人物を面白おかしく、
また恋愛関係などを勝手に想像して作るのでしょうけど、脚本って大変だと思います。


粽(ちまき)の由来となったとされる屈原の件も少しだけ語られています。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A1%E3%81%BE%E3%81%8D
楚の愛国者だった政治家で詩人の屈原が、汨羅江(べきらこう)で入水自殺した後、
民衆が弔いのためのほか、魚が屈原の亡骸を食らって傷つけないよう、魚に米の飯を食べさせるため、
端午の節句の日(端午節)にササの葉で包んだ米の飯を川に投げ入れたのが起源とされる。


最終回ですが芈月の最後は出てきません。
ただナレーションで死後の話、始皇帝までの流れが簡単に話されます。
最後の回はその後のまとめみたいな感じでしたね。
それにしても兵馬俑って芈月が始めたことになってますね。。
芈月は兵马俑の兵士の髪型が秦の兵ではないとか言ってましたが、実際に間違っている兵马俑でもあったのでしょうかね?
私は始皇帝の兵马俑には2015年に行きました。
春節西安旅行紀(3)、世界遺産、始皇帝兵馬俑 - 異邦人になってみた~上海の人


芈月の息子嬴稷から下はなんか早死にですね。
やっぱりこの当たりの歴史って曖昧な所が多いようですね。
嬴稷の妻、叶阳后(葉陽后)ですがこのドラマでは芈瑶になっていました。
しかもすぐ亡くなってしまうし。。


歴代の秦王
第26代君主。嬴驷 秦惠文王(紀元前356-前311年)
第27代君主。嬴荡 秦武王(紀元前329年-前307年)
第28代君主。嬴稷 秦昭襄王(紀元前325年-前251年)
第29代君主。嬴柱 秦孝文王(紀元前302年-前250年)
第30代君主。赢楚(异人) 秦庄襄王(紀元前281年-前247年)
第31代君主。嬴政 始皇帝(紀元前259年-前210年)


最後までお付き合いありがとうございます。


他にも書いているので興味のある方は見てください。